不登校予備軍へのメッセージ。
2026/07/24
教員生活を送っていた10年目、30代の前半にボクは突然、体の変調に襲われた。
35年も前のことだ。
手足の指先、つまり末梢神経のしびれ、それに得体の知れぬ虚脱感…。
地元病院での臓器の検査、脳波の検査…、どれも異常はなかった。
それでも手足のしびれは続いている。
ボクはすぐに人づてに紹介された大学病院に行った。日本で初めて「診療科内科」を設置していた大学病院だ。
そこで「すくに入院しろ」と言われた。
聞き慣れない「心療内科」で、ボクは毎日、同じ時間帯に問診を受けた。
2週間の入院後、ボクに与えられた診断名は「自律神経失調症」。
当時の日本の最先端医療(心療内科)でも、そんな抽象的な診断名しかつけられないのか…。
ボクはなんとも晴れない気持ちで、その後も、1ヶ月の自宅療養を続けた。
手足のしびれ、それに虚脱感は解消された。
だからボクは現場に復帰した。
そしてそれまでと同じようにガムシャラに働いた。
今思えば、ボクにも周囲にも知識が足りなかった。
「自律神経失調症」とは、一時的な自律神経の乱れ…、その程度の認識しか世間にはなかったのだ。
つまりボクはそれまでの生活を顧みることなく、いつもと同じように「正義の教員生活」(自称)を続けていた。
そして更に10年後、ボクは40代の前半に、再び得体の知れない体の変調に襲われていた。
きっかけは「音」だった。
職場での同僚の会話音が、何十倍にも増幅されたようなノイズに聞こえた。
電話に出ることもできなくなった。会話相手の声をノイズと感知し、ボクがそれに耐えられなかったからだ。
そのような日々をそれでも何とか送っていたある日の朝…、ボクは顔面麻痺(右側半分)を発症した。
すぐに病院にいった。
この時も脳波に異常はなく、臓器も正常だった。
そしてボクは、10年前の「自律神経失調症」を思い出した。
「メンタルヘルス」という言葉が、やっと市民権を得始めていたから、ボクは躊躇なく心療内科の扉を叩いた。
それでも、その頃の心療内科専門医院(クリニック)は、まだ都内にしかなかった。
しかも、どれも満足な問診すらすることなく(5分程度の問診)、安易に精神安定剤の処方をする程度のクリニックだった。
ボクは、まったく納得していなかったし、満足もしていなかった。
この国のメンタル医療の遅れを肌で感じる日々だった。
初めてボクの症状と真剣に向き合ってくれたのは、14軒目に出会ったクリニックだった。
初回で60分間、問診した。その後も毎週1回の60分の問診が続いた。
そして一か月後、ボクは「うつ病」と診断された。そして1年間の休職を勧められた。
確かにボクはおかしかった。この10年間の「正義の教員生活(自称)」のツケが一気に襲いかかってきたのだ。
ボクは、教育現場からの「撤退」を考えた。
生活がかかっているのだから、「働かない」という選択肢はなかったからだ。
それに1年間休職したって、ボクが晴れて現場復帰できる保証なんかどこにもなかったからだ。
しかし担当医はこう言った。
「メンタルが弱っている時に『大事な決断』はするものではない」と。
「ワタシは『安易な撤退には反対』です」と。
「ワタシがアナタを『復帰へ導く』」と。
ボクは担当医を信じてみることにした。
1年後、ボクは現場に復帰していた。そして60歳…、定年まで働いて今日がある。
今でも現場は変えながら、それでも教壇に立ち続けることができているのは、担当医(女医)のおかげだ。
なんで、ボクがそんなプライベートを吐露するのか?
それは、ボクのあの時の「撤退」願望が、現在の不登校予備軍の「撤退」願望に通底するからだ。
「撤退したい…」、その心情は痛いほどわかる。
ボクも同じだったから。
でもね、それは「今じゃない」…、かもしれない。
まずは休職(自主的・自立的休学)して、ゆっくりとメンタルを整えればいい。
少なくとも、ボクはそれを「不登校」とは呼ばない。
あくまでも「自主的休学」…。
慌てることなんかないんだ。
一人でもホントに信じることができる人に出会えれば、きっとその意味がわかると思うんだけどな。
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