放課後補習文化再興論。
2026/07/16
不登校は、その大半が構造的な問題である…、というのがボクの持論である。
学校の構造、人間関係の構造、社会の構造、それに家庭の構造…、それらの構造が絡み合って不登校が発生すると考えている。
もちろん、不登校という現象が、そんな構造論だけで簡単に片づけられるような安直な問題ではないことは承知している。
しかし、ここ20年ほどで完成された「学校の構造」だけにフォーカスを当てても、今の学校にとって不適切な生徒が、静かに「排除されている」といった「構造」が見て取れる。
例えば「授業」…、これもクラス生徒と担当教師とによる「構造的な産物」である。
義務教育の場合、大抵の先生は公務員だ。
そしてこの公務員(正しくは教育公務員)という人々の中にも、明らかに「構造」は存在する。
その構造の大半を占めているのが、「公平」と「公正」であろう。
たとえ子どもの年齢にあるといっても、児童・生徒には「市民」としての権利がある。
嫌な言い方をすれば、そんな子どもたちと、まずは「公平」「公正」に接しているか…、その大前提が先生には課せられている。
そのような「構造」の中で、だから先生は「授業がわかならい」生徒を対象とした「補習」をすることができない。
「公平」「公正」ではないからだ。
先生にどんなに正義感があっても、子どもたちを放課後に残して「わかるまで勉強させる」ようなことは絶対にできない…、
そんな「構造」の中で、先生たちも無力感を抱き、時には罪悪感に苛まれていることは想像できる。
だって、普通に授業をしていれば「わかってる」「もう少しでわかるようになる」「まだわかってない」「ただ途方に暮れている」などといった状態にある子どもたちが手に取るように「分かる」ものだからだ。
そして先生たちが罪悪感を感じるのは、「まだわかってない」「ただ途方に暮れている」…、そういったカテゴリーに存在する子どもたちに「何もしてあげられない」と感じた時である。
「授業がわからなかった人…、放課後に残りなさい!」…、それが出来ないのである。
それを宣言することすらできないのである。
たとえ「放課後補習」を宣言したとて、すぐさま管理職に止められてしまう。
特定の生徒だけに「補習」をすることは「公平」「公正」の精神に反する…、それが理由である。
だから「放課後補習」という学校文化は、21世紀に入ってからは見られなくなった。
これを、ボクは敢えて「排除」と呼ぶことにしている。
授業内容が「まだわかっていない」「ただ途方に暮れている」ところの子どもたちが、「公平」「公正」という名の下で「排除」されているからである。
真の意味での「公平」「公正」とは、同じ授業を同じ回数受けることではなく、同じ授業を「同じようにわかるまで受ける」ことができる状態を言うのだと思っている。
つまり、授業が「わからない」という状態から「わかるようになった」状態へと橋渡しをする、一本の確実な「道」が閉ざされた状況に彼らは放置されているのである。
だから彼らは「授業がつまらない」と言う。
あたりまえである。
わからない授業は「つまらない」のだ。
逆に「わからない」ことが「わかる」ようになった時、人は「おもしろい」を体感する。
そんなあたりまえを、今の学校は「構造」の中で放棄してしまっている。
そんなことが「正義」と言えるであろうか。
ボクは「授業こそが『正義の発露』である」と思っているのであるが、現場の先生は、そこんところをどうのように感じているのであろうか。
忸怩たる想いを抱いているのであれば、何とか心ある先生が集まって「放課後補習文化」を再興させていただきたいのである。
定年退職した元先生のボランティアで、放課後個別指導をして「お茶を濁している」場合ではない。
彼らには「授業で教わった先生からのフォローが必要」なのである。
どこで「つまづいた」のか…、どこから「わからなくなった」のか…、それを肌で感じているのは授業担当者だけである。
だから必要なのは、授業担当者による「放課後補習文化」なのだ。
そうするだけで、おそらくは不登校児童・生徒は減少すると思うのだが…。
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