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<title>ブログ</title>
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<title>教科書を読む…、ただそれだけ。</title>
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小さな塾をやっている。だが、ボクはそれを「塾」とは言わない。「ラボ」と呼んでいる。特にカリキュラムはないし、学校の授業のやり直しをするわけでもない。学生のアルバイトの講師も雇わない。でも、それぞれの分野のプロを先生として招いている。業務委託というヤツだ。「ラボ」には特別のテキストがあるわけではない。教科書を読む…、ひたすらに…、だけども丁寧に読み込む。子どもたちは、最初は教科書が読めない。学校で教科書をほとんど使ってないからだ。そんな不思議なこと…、そしてそんな理不尽なことがあるのか…、初めのうちは愕然とした。特に中学になると、先生はオリジナルな教材を使って（拵えて）授業を展開するらしい。で、「分かったね」となり、「確認のテストをやろう」ということになる。「やり方」は教える。でも「考え方」は教えない。「正解」には導く。でも「そこまでの理屈」は教えない。教科書には、その理屈が書いてある。だから理屈に沿って理解すれば、自力でも単元を終えることができる。ただ、教科書は「ちょっとだけ不親切」だ。つまり、「ちょっとだけ理屈が丁寧ではない」…、雑なんだ。その「雑さ加減」がいい…、そうボクは思っている。何でもかんでも「懇切丁寧に」書かれていればいいってもんじゃない。書かれていないところで、生徒は「？」となる。この「？」に至る導線も、どうやら教科書の編集による「仕掛け」みたいだ。だから、教科書を読むと「考える」クセがつく。自力で「分かる」ようになるまでの耐性がつく。ボクは、今、ある中学2年生と「数学」の教科書を一緒に読み込んでいる。専門の社会と、ちょっとだけ畑違いの国語も教えているけど、それらとはまったく違う世界を学んでいるんだ。すると「これ…、国語力ですよね」と中学2年生が言う。「そうだよ。特に数学の教科書は国語力が大切だね」とボクが返す。「数学って理屈なんですね」…、中学生がそこに気づく。「そう。だから丁寧に読む」「学校では先生からやり方だけ教わって、あとは問題を解くだけ」「それだけ？」「それだけ。で、ひたすらワーク（問題集）をやれって。そこから定期考査の問題を出すって」「それがおかしいって思ったんだね」「はい。なんでもっと教えてくれないのかなって…、学校行く意味があるのかなって…」「だから不登校になった？」「いえ、不登校ではありません。プチ不登校です」教科書の威力は絶大だ。でもそのことに誰も気づいていない。つまり教科書を読まない。先生は教科書を読ませない。だから教科書が読めない…。これって、実は大問題なんじゃないかって思う今日この頃です。
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260921125732/</link>
<pubDate>Mon, 21 Sep 2026 14:33:00 +0900</pubDate>
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<title>人間には、組織に馴染み、努力や協調性を大切にする「タイプA」...</title>
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人間には、組織に馴染み、努力や協調性を大切にする「タイプA」...
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260915205621/</link>
<pubDate>Tue, 15 Sep 2026 20:56:00 +0900</pubDate>
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<title>息を合わせる…、ただそれだけ。</title>
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中学から高校にかけて、ボクは吹奏楽に、その青春をぶつけていた。楽器はホルンである。野球しか知らなかったボクが、突如として音楽の道へ向かったことに、親（特に父親）は驚いていた。そして中学でも高校でも、ボクは吹奏楽部の部長となった。とりわけ高校の吹奏楽部での部長という立ち位置は、そのまま学生指揮者という立場でもあった。週に一度だけ、正指揮者が学外から招かれ、その指揮者のアドバイスを翌週までに演奏に落とし込む。それが学生指揮者の役割であった。この学生指揮者であった丸1年間、ボクはとてつもなく貴重な体験をすることになる。50人の部員（楽団員）を前に、指揮をする。ということは、毎日、それぞれの楽器のピッチを合わせるところから始めなければならない。音合わせのことである。が、高校生の素人楽団員50人分の「ピッチ合わせ」には、実はとてつもない時間がかかる。ピッチが狂っていれば、どんなに器用に演奏しても、音楽が台無しになるからだ。初めに基準となる「音」を出す。ピアノでもいいし、音叉でもいい。最近では、電子チューナーを使うことが多いらしい。その「音」を基準に、全員が音合わせをする。その日の気温や湿度、演奏者の体調によってもピッチは変わるから、この音合わせには慎重を期す。で、指揮者（ボク）の合図に合わせて、全員でスケール練習をする。ドレミ…、それぞれの音を出しながら、全員の音がチューニングされているかどうかを測るためだ。すると必ずと言っていいほどの確率で、皆の音（実際には音の束）からはみ出す者が出る。音は空気を振動させるのであるから、その振動に乱れが生じるとヘンな感じになる。それが不協音だ。その不協音の犯人を捜す。各パート（楽器）毎にスケールをさせる。いた！その日は、アルトサックスの奏者のピッチが狂っていたのだった。そんなことを繰り返した後に、やっと正指揮者から預かっている「課題」に取り組むことができる。例えば、「今日は第〇小節の頭から…」と言えば、全員の目がボクの指揮棒の一点に集まる。そして集まるのは、「目」だけではない。呼吸も集まる。つまり4拍子の曲の場合、4拍目の予備拍（1拍前）のタイミングで、皆が息を吸い込む。面白いことに、打楽器奏者だってそれをやる。文字通り「息が合う」動作そのものを練習するのである。すると、1拍目の「ジャン！」が決まる。今日のボクのブログは、いったい何が言いたいのか？読んでる方々が訝しがるのも無理はない。ボクが言いたいのは…、最近の学校授業…、この「音合わせ」と「息合わせ」が足りないんじゃないの？と言うことだ。皆のピッチが合わないまま、皆の息が合わないままで、授業が始まっているような気がする。だから中途で、皆がバラバラになり、遭難する者が続出するんじゃないか…、って、勝手に思ってる。偉そうなことを言うが、「ピッチが合っている」「息が合っている」という状態は、実に気持ちがいい。それは指揮者だけではなく、いや、ホントは指揮者以上に、演奏者の方が心地よいのだ。だから授業も同じ、と考える。皆と「ピッチが合って」「息が合って」る状態にすれば、その授業に参加する全員に心地よさが広がる。クラス対抗合唱祭を思い出せばいい。真面目くんはもとより、ちょっと不良くんだって、その時ばかりは声を張って歌う。あれ、絶対に気持ちがいいからなんだ。気持ちがいいこと、心地がいいこと…、そういったことが、もっと学校全体に広がれば、皆が学校を好きになる。ただ、それだけのことだと思う。
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260909131414/</link>
<pubDate>Wed, 09 Sep 2026 14:21:00 +0900</pubDate>
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<title>難民化する「タイプB」。</title>
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人間をタイプＡとタイプＢに分けてみる。タイプＡとは、いわゆる努力を惜しまず、忍耐強く、協調性も十分に持ち合わせた人々のことであり、学校や会社組織との相性がいい。タイプＢとは、組織に依存せず、独自の物差しで物事を捉え、直観で動くような人々のことをいう。だから集団からは疎まれることもあり得る。少し想像すればわかるが、世の中は「タイプＡ」の人々によって秩序が保たれ、上手く回っている。日本人が、外国人から見て「親切」で、「丁寧」で、「几帳面」な民族だと思われているのは、ほとんどが「タイプＡ」の人々の振る舞いからであろう。その意味で、タイプＢの肩身は狭い。ボクはちなみに、典型的なタイプＢなので、学校組織の中では「変わり者」の部類に入っていた。そんな「タイプＢ」がこれからの主流になる…、と７年前に著書で予言（？）していた御仁がいた。山口周という人だ。『ニュータイプの時代』という著書がそれなりに売れていたから、知っている人も多いと思うが、ボクもこの人の論に膝を打って共感した覚えがある。山口氏はタイプＢを「ニュータイプ」と呼んでいる。で、このニュータイプ（タイプＢ）は、それからどうなったのか？っていうセミナーを先日、オンラインで実施した。結論から言えば、この７年でタイプＢが増えたという形跡はない。むしろ、圧倒的な勢いでタイプＡが増殖してきたと、少なくてもボクの肌感覚ではそう感じていた。どうやら、2000年代以降の改革期を終え、学校教育が「今のカタチ」へと完成したのが、ここ4～5年のことであることと関係がありそうだ。つまり、現在の学校教育は、紛れもなく「タイプＡ」を大量生産するという設計の下で運営されている。成績を初めとする各種の評価（内申）は、明らかにタイプＡに有利に働いていることは、ボクたち大人よりも、子どもたち（特に中高生）には、とっくにバレている。だから彼ら（タイプＢ）は、健気にも学校生活においてタイプＢであるにもかかわらず、タイプＡであるがごとく振る舞う術を覚えた。そうしないと、学校だけでなく社会にも実装された「推薦社会」という箱から閉め出されてしまうからだ。そしてこれは、完全に個人の私見であるが、不登校生徒の中には、実を言うと大量の「タイプＢ」が潜んでいるのではないかとボクは考えている。しかし、前述した山口氏が指摘（予言？）したような「タイプＢ（ニュータイプ）の時代」は、一向に始まっていない。面白かったのは、そんなセミナーへの参加者の大半が「自分はタイプＢである」ことを認識していることであった。「タイプＢの時代を検証する」などと銘打つ、ボクのセミナーに敢えて参加するくらいの人々なのだから、そういった行動を取ること自体がタイプＢの証でもあった。そして、参加者は口を揃えて言う。「タイプＡとして（タイプＡに寄せて）生きている」と。世の中の変わり目には、絶対にタイプＢが必要であろう。そして、まさに今が「世の中の変わり目」であろう。なのに、未だに「タイプＢのための市場」がない。相変わらずに肩身は狭い。このような社会設計にした人々（教育者や政治家や起業家）は、これからもホントにタイプＡの「努力」と「忍耐」にぶら下がって、この国を束ねよとしているのであろうか。ボクはそれでも良いと思っている。歳も歳だし、ボクは勝手にタイプＢを生きる。しかし、タイプＡを横目に見ながら、それでもタイプＢを行ききらなければ、自身のアイデンティティーが保てない若者は、これからいったいどのように生きたら良いんだろうって、これも勝手に心配している。そんな今日この頃だ。
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260831191611/</link>
<pubDate>Mon, 31 Aug 2026 19:57:00 +0900</pubDate>
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<title>学校での生徒と先生の関係が今やどんどん薄れてきている。</title>
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<![CDATA[
学校での生徒と先生の関係が今やどんどん薄れてきている。
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260827123733/</link>
<pubDate>Thu, 27 Aug 2026 12:37:00 +0900</pubDate>
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<title>スキンシップなき教育の果て。</title>
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<![CDATA[
教育現場でのスキンシップは、原則禁止である。そういう取り決め、というか暗黙の了解というか、お達しというか、そういった力学の下で教員は、児童・生徒へのスキンシップを自制している。きっかけは「ハラスメント防止」にある。いや、もっと直接的に言えば、教員の（特に男性教員の）女児や女生徒に対する性加害事件が続発しているからである。メディアが、教員の児童・生徒に対する不適切行為を大々的に取り上げる。すると「学校の先生の中には、こんなにもたくさんの異常者がいるんだ」といったイメージが世間に急速に広がった。そこで、転ばぬ先の杖じゃないけど、「児童・生徒への一切の身体的接触をしない」という方向に、学校は舵を切った。ボクの知り合いの教員が、中学女子に対して、テストの答案を返しながら「次はガンバレよ」と励ますつもりで肩に触れたら、それをはねのけられた。ボクの知り合いの教員の、そのまた知り合いの教員が、女子児童の頭をチョコンと叩いただけで、保護者から訴えられた。そんな類いの事象が、そこら中にころがっている。女児や女生徒を自身の性的な対象として見ているであろう男性教員は、ボクの感覚でもかなりたくさん存在する。かつては、教員が性加害者となっても、現場はそれを隠蔽していた。いや、正確に言えば、隠蔽することが容易であった。被害者の側に、世間の晒し者にされたくないという心理的恐怖があったから、隠蔽工作も成功したワケである。ところが今は違う。証拠をとって訴える。訴えられた学校は、もちろん狼狽する。「またか！」となる。真面目に教育現場で奮闘している男性教員は、たまったものではない。自身の児童や生徒に対する不用意な言動が、何かのきっかけで訴えられることも十分にあり得るからだ。教員を対象とした損害賠償保険すら、事実、存在する。疑われるだけでも「ダメ」な状況に、学校は変容したのである。そこで学校、そして教員は「貝になる」ことを選択した。手を出さない、もちろん足もださない、それに口だって滅多に出さなくなった。これを「リスク回避」と称して、全教員に奨励した。それでも男性教員の不祥事（性加害事件）は続く。もう一度断わっておくが、それは何も今になって増えたわけじゃない。昔からそんな類いの教員はたくさんいた。それは間違いない。問題なのは、そんなことをするワケがない…、という「潔白さ」を日々証明しながら教員を続けなけれえばならないということの異常性にある。性的異常者が教員には（教員にも）多い、だから「異常者」であると思われないように身体接触を厳禁とする…、ことを学校は教員に強要する。でも、これって、単なる「事なかれ主義」じゃないのか？確かに性的異常者は多い…、けれども適度なスキンシップは、教育上必要だ。どうしたらもっと自然に、教員と児童、教員と生徒が触れあうことができるのか…、それを考えるのが先だろう。幼稚園や保育園では、もちろんいまだに愛着形成を基本に教育や保育が行われている。つまり、子どもたちは濃厚なスキンシップの中で成長を遂げる。幼児期に育まれた愛着は、すぐに「言語による信頼関係」へと置き換わるワケではない。特に小学校低学年期は、まだ身体的な感覚を通じた安心感を必要とする過渡期である。その過渡期にあって、学校は「ハラスメントリスクの回避」を先行して、教員から一切のスキンシップを取り上げた。子どもの発達的ニーズにそぐわない「頭でっかち」な教育を施している。そこに「愛着」の継続はない。ボクは、個人的には愛着の形成には「思春期前期」…、つまり自我が十分に芽生えるまでの時間が必要であると思っている。つまり適度なスキンシップは、たとえ中学生にでも有効であると考えるのである。それは、現行の学校文化としては、とても怖い話でもあるが、現実に子どもたちはスキンシップ（じゃれ合い）を求めている。子どもの健全なる発育は、まちがいなく他者との交流、他者との触れあいの中にある。それを学校は、「たとえ身体的な接触がなくても豊かな心は育める」と強弁する。おためごかしである。学校生活から、教員と児童・生徒間のスキンシップがなくなった。このことをもって、学校教育の半身が失われたと言っても過言ではないだろう。不登校の遠因も、実はそんなところにあったりもするのではないか。彼らこそ、ホントは濃密なスキンシップを求めているのではないか…、そのように想像してしまう。もはや先生は、ロボットのような無機質な存在であることが求められる時代になった。だって、ロボットは決して性加害者にはなり得ないからである。
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260823134226/</link>
<pubDate>Sun, 23 Aug 2026 14:56:00 +0900</pubDate>
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<title>今や当たり前となったデジタル化。</title>
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<![CDATA[
今や当たり前となったデジタル化。
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260816000522/</link>
<pubDate>Sun, 16 Aug 2026 00:05:00 +0900</pubDate>
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<title>学校のデジタル化と不登校（2）</title>
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学校のデジタル化が進んだことで、学校内の何が一番変化したのか？これについての学校側（ということは文科省側）の回答は、きっと次のようであるに違いない。①教員の業務（出欠管理や授業管理）が効率化された②授業も効率化され、進度が確保できるようになった③成績に対する公平性が担保され、評価の根拠を示すことができるようになった④学習指導や生徒指導、進路指導に連続性が生まれ、引き継ぎが容易になった等々と、これ（上記）は、学校（先生）の側からみたデジタル化の利点である。一方で、そういった学校で日常をおくる子どもたちにとって、デジタル化の進化によってもっとも変化したことは何か…、と問うたとて意味はない。だって、彼ら（彼女ら）は、生まれた時から「デジタルの波（渦と言ってもいい）」の中で育ってきているワケであり、つまりは「デジタル以前の社会」を知らないのであるから比較のしようがないからだ。だから、デジタル以前の社会を十分に知っているボクが、その問いに対する回答を代弁してみたいと思う。学校のデジタル化が進化したことによって一番変化したのは…、人間関係だ。たぶん、これ…、間違いない。学校教育にデジタルをふんだんに導入した…、その結果、そこに生活する人間（先生や生徒）もデジタル化しちゃった。「デジタル人間」が大量生産されたワケだ。でも、考えて見れば、それは当たり前のことでもある。他者をデジタル的に扱えば、その他者は、やはりデジタル的に反応する。それでいい…、いや、それがいい（最適解だ）と思って、子どもたちはデジタル的に対人関係を処理することになった。でも彼らの体内（脳内）に、しっかりと刻まれている「アナログ的な対人関係」は、そう簡単に消えやしない。アナログ的対人関係…、これは説明するまでもないであろう。母親の胎内にいた頃から、保育園や幼稚園、そして理想的には小学校の低学年まで、彼らはアナログの中にドップリと浸かった生活を送ってきている。アナログの連続性の中で、対人関係を学び、そして築いてきた。先生は、絶対的「アナログ人間」だった。そして、それしか知らなかった。そのことを、学校の、特に小学校のベテラン先生はちゃんと承知している。だから、特に低学年の児童には、無闇にデジタル器財は使わせないことにしている。アナログからデジタルへ…。その通過点（吃水点と言ってもいい）を「どこに設定したらいいか？」…。これに関する国民的な合意がないまま「学校のデジタル化」は進められている。っていうか、それより以前に、母親の子育てにおける「デジタル化」が、どれだけ浸透しているのかを、まず知ることが重要だと思う。母親にとっては、多分に背徳感はあっても、現代の子育てに「デジタル」は欠かせない。問題は、その（アナログとデジタル）の配分にある。アナログの中に、乳児、幼児が深く包まれ、その上でのデジタル使用ならば、さほど問題はないだろう。だが、ぞんな親のデリケートな子育ての延長線上に存在しなければならないはずの学校教育には、保育園や幼稚園ほどの配慮はない。前述したような、小学校低学年までは「慎重にデジタル器財を使わせる」といった合意形成は、実は、一部の学校に留まっている。そういった配慮をすることができるベテラン先生が、現場からどんどん消えているからだ。たとえベテラン先生が運良く残っていても、その先生は「デジタル難民」である可能性もあるのであるから、問題は複雑になる。デジタル教育の流れは止められない。そしてその流れを否定するつもりはない。しかし、先ほどの「通過点（吃水点）」の設定は、とてつもなく重要だ。どのタイミングで、子どもたちを「デジタルへと誘うのか？」…。ボクは、本音を言えば、それは高校でいいと思っている。もちろん、それ以前にデジタルリテラシーの枠組みは学ばせる。けれども確かな人間関係の構築期、つまりは思春期前期においては「デジタル教育」が出しゃばらないほうがいい。人間関係を構築するには、互いの「間（ま）」や「遊び」「揺らぎ」「気まずさ」「心地よさ」を肌で感じ合う必要だある。それらが必要なのは、何も生徒間だけの問題ではない。生徒と先生の関係性においても、「間（ま）」「遊び」「揺らぎ」…、これらは必要だ。そうやって子どもたちは「手探りで」成長していく。先生も同じだ。生徒との関係性（キョリと言ってもいい）を「手探りで」たぐり寄せる。そういった人間双方の関係性が育まれる…、それが学校という社会だ。つまり学校が、そんな有機的な「安全地帯」であり続けたならば、「不登校」などといった緊急避難的現象は起こらなかったはずだ。学校は、子どもたちにとっての、唯一の「アジール」だった。その「聖域」が、今、管理者の都合によってデジタル一色で染め上げられている。学校のデジタル化は、もはや吃水点を当に超えて、子どもたちの、そして先生の「人間性」を蝕んでいる。そんなことを考えるボクは…、おかしいのか？
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260814135514/</link>
<pubDate>Fri, 14 Aug 2026 15:32:00 +0900</pubDate>
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<title>学校のデジタル化と不登校（１）</title>
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国が旗振り役となって、ＧＩＧＡスクール構想なるものが進められている。平たく言えば「学校のデジタル化をどんどん進めていこう！」とする構想だ。とはいえ、財源あっての構想だから、その進捗状況は、自治体によってまちまちである。都市部の学校で７割～８割、地方部では２割～３割といった自治体が、その波に乗っかっているというのが現状だろう。かつて（10年ほど前）、学校現場への電子黒板の導入が緊急に進められた。生徒個人への学習端末（タブレット）の導入と軌を一にしている。しかし、その電子黒板の、その後の「使われ方」がおもしろい。それ（電子黒板）を積極的に使って（使わせて）授業を進める学校と、そうでもない学校。一部の先生が、それを積極的に使用していても、そうでもない先生が多数存在する…、そんな学校がたぶんスタンダードであろう。で、そういった学校の電子黒板は、今では埃を被っている。実は、ボクが、今勤務している学校も典型的な後者、つまり電子黒板の使用は個々の先生の裁量に任せている…、そんな学校だ。だから、ボクは、学期の初めに生徒に訊いてみた。「電子黒板で授業をすることもできるし、昔ながらの黒板にチョークで授業をすることもできるけど。どうする？」と。圧倒的に「黒板にチョーク」が支持された。と、これはボクの想定内である。生徒はデジタルに疲れ果てているのである。街でも、家庭でも、学校でも…、デジタル一辺倒の中で、子どもたちは「デジタル疲れ」を体感している。きっと「自分の中から何かが吸い取られていく感覚」なのだろう。デジタルとアナログを無意識のうちに使い分けしているのが、ボクたちを含めた40代以降の人々であると思う。そういった人々は、時としてデジタルから「逃げる」術を知っている。「デジタルデトックス」ってヤツだ。しかし令和に生きる子どもたちには、そういった意識すらない。あくまでもデジタルの「対象」でしかないからだ。スマホをいじれば、学校で学習端末を使えば…、その都度の動作（選択）がデジタルに落とし込まれて、ＡＩのアルゴリズムに組み込まれていく。つまり現代の学校は、そういった国家ぐるみのデータ収集に、最前線で加担している存在なのだ。考えてみれば、現在の学校というのは実に奇妙な存在である。都市部の学校に限って言えば、学校が、完全に地域や家庭から「遮断」されている。学校全体が、ある種の要塞となって、その中で何が行われているのかが周囲からは見えにくくなっている。「生徒を守る」という観点から、外部侵入者を極端に遮断しているからなのだろうが、それによって学校が「ブラックボックス化」してしまった。だからそこで働く先生の存在も実に奇妙だ。早朝、誰に気づかれることもなく学校に先生は現われる…、っていうか「出現する」…、そうデジタル的に出現する。で、昼間は一歩も外に出ることなく、ブラックボックスの中で子どもたちを管理する。で、夜になれば先生たちは静かに（デジタル的に）消える。管理するという表現に語弊があるなら「データ化する」に言い換えよう。日々、先生たちは生徒の情報をデータ化しているのである。それが仕事になったのだ。出欠状況、学習状況、面談記録、家庭環境記録、行動記録、特記情報、過年度の先生が担当した「所見」すらデータ化される。そしてそれを学校が共有し、厳重に管理する。しかしその重要なデータの中に、例えば「地域の噂話」や「家庭の複雑な状況」は組み込まれない。そのような類いの情報はデジタル化できないし、デジタル化できないものは、データとして残しにくいからだ。そもそも地域との関係を積極的に遮断しているのであるから、そういった情報は学校には入りづらい。入ってくる地域情報は、せいぜい「苦情」くらいなものだろう。でもって、先生は子どもたちを「深く知り」「キメの細かい指導をする」という。膨大なデータがあるから、それが可能であると考えている。休み時間の生徒との「雑談」や、生徒との「じゃれ合い」…、そういうものはデータの「埒外」にあるから、それをしない。そういった先生こそ、真の情報が、生徒との「雑談」「じゃれ合い」といった有機的な人間関係の中にこそあることを知らないのだ。つまり、そういったデータ収集とその管理を、学校で任される先生こそ、デジタル人間であることが相応しい。好むと好まざるとに関わらず、一様に先生が「デジタル人間」になることが求められる。それが今の学校だ。「デジタル疲れ」を肌で感じている生徒が、そんなデジタル人間（先生）にも「疲れ」を感じることは容易に想像ができる。だから、子どもたちは「管理されやすい存在であること」を演じることの方が、実は楽チンであると考える。それは現代の学校に通う子どもたちの、ある種の生存戦略でもある。「データは好きなほど集めればいい」「でもね、ボクたちの心はデータ化できないよ」「ボクたちはね、アナログの心地よさを知っちゃったからね」…。スマホをいじる、学習端末を使う…、そのひとつひとつの動作（作業）がデジタル化されて、ＡＩに吸い取られていく。そしてＡＩのアルゴリズムが、子どもたちの「考え」を無意識の内に誘導していく。人間をひとつの方向に誘導する、その膨大なデジタルデータを日々蓄積し、それをまとめてどこかへ送り続ける…、その最前線のひとつが学校である。誰が悪いワケではない。けれども、そういった巨大なデジタルのうねりの中で、途方もなく「違和感を抱き」「息苦しさを感じる」…、そんな子どもたちが増えている。それは事実だと思う。その「デジタル攻撃」が、何らかの作用をして、今、不登校を大量に生み出している。そういったことを証明する学術的根拠は…、どこにもない。ただ、ボクがそう思っているだけである。
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260809110524/</link>
<pubDate>Sun, 09 Aug 2026 12:18:00 +0900</pubDate>
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<title>子どもから学校に行きたくないと伝えられたとき、多くの親御さん...</title>
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子どもから学校に行きたくないと伝えられたとき、多くの親御さん...
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260802201459/</link>
<pubDate>Sun, 02 Aug 2026 20:14:00 +0900</pubDate>
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