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<title>子どもが自分の個性を知ったり、模索する思春期に学校は彼らを上...</title>
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子どもが自分の個性を知ったり、模索する思春期に学校は彼らを上...
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260525222146/</link>
<pubDate>Mon, 25 May 2026 22:21:00 +0900</pubDate>
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<title>今どきの「学校のあたりまえ」。</title>
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中学生ほど「謎の生きもの」はいない。いや、厳密に言うなら、小学校５年生くらいから高校１年生くらいまでが、謎の領域に存在する。それぞれの大人が、完成された常識をもってしても「謎の中学生」にはきっと翻弄されるに違いない。しかし、当の中学生にだって「なぜそんなことを考えて、なぜそんな行動をとるのか」について、よくわかっていないのだから、周囲の大人にとっては対応の仕方がまるでわからない。そんな中学生を、だから先生は管理しようとする。しっかりと管理しないと、中学生は子どもと大人の「端境期」に我を見失って遭難しちゃうからだ。ところが、その管理の仕方が、どうも間違っている。完全に「上からの管理」に終始していて、先生が「横で寄り添う」ことをしない。先生が、中学生の人生の伴走車になり得ていないのである。と、これは先生が悪いワケではない。長年にわたって積み重ねられてきた「マニュアル」…、つまり「子どもの対処法」がおかしなことになっているということだ。マニュアルに異常があるのなら、それを修正すればいいだけのこと…。しかし学校は、それをしようとはしない。なぜか？前例踏襲…、これを打ち破ることができないからだ。何事も…、前例踏襲…。これで学校現場は当面の間、丸く収まる。この「当面の間」に子どもたちが卒業してしまえば、また新たな「当面の間」がおとずれる。この繰り返しだ。だから学校は、そして先生は変わりようがない。変わる気配がないのだ。そして、それが新たな学校の「当たり前」になってきた。それだけのことである。
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260525190857/</link>
<pubDate>Mon, 25 May 2026 19:29:00 +0900</pubDate>
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<title>子どものわがままは健全な証拠</title>
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子どものわがままは健全な証拠
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260518232722/</link>
<pubDate>Mon, 18 May 2026 23:27:00 +0900</pubDate>
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<title>不登校と「わがまま」</title>
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不登校状態にある子どもは…、はたして「わがまま」なのか。もし「わがまま」であるとするなら…、そもそも「わがまま」だから不登校になったのか、それとも不登校になって以降に「わがまま」になったのか。答えは後者であることが多い。しかも、不登校状態になって以降に、わがままになったということであるならば、それは明るい兆しでもあると言える。不登校状態にある児童・生徒は、そうなるまでの間にかなり自己を抑圧してきた傾向がある。自己を抑圧し、その抑圧がピークに達した時、彼らは「不登校」を選ぶ。つまり、彼らは「良い子」である場合が多い。そんな「良い子」が不登校となり、まずは親を慌てさせる。周囲を混乱させる。そんな大人たちの状況をみて、彼らは「まずいことになった…」と頭を抱える。「取り返しがつかない…」と大いに混乱する。だから一時的な「うつ」状態になる。引きこもりにもなる。そして親は、さらなる困惑の中に沈み込む。しかし、彼ら（不登校児童・生徒）の人格が変わったわけではない。ただ「心を閉ざしている」だけだ。よって、何らかのきっかけで「閉ざされた心」から解放されたら、彼らはみるみるうちに明るくなる。というか、本来の自分を取り戻すワケだ。で、「あれがしたい」「それはしたくない」…、などと自分で自分の領分を決める。この状態を翻訳すれば、「あれはできる」けれども「それはできない」となる。「勉強はしたい」けど「学校には行けない」、または「友達とは会いたい」けど「先生には会いたくない」となるワケだ。これを世間は「わがまま」という。けれども、その「わがまま」から始めなければ、自分を保ち、次のステージに行くことはできない。だから彼らの「わがまま」は、不登校状態という「目には見えない大きな壁」を乗りこえるための「通過儀礼」であるとも言える。それでも彼らの「わがまま」が許せないと感じる御仁もいよう。しかしその程度の「わがまま」なら、特段に困る大人も少ないであろう。困るとしたら親か先生だ。つまり、親や先生は、子どもの「わがまま」が顕著になってきたら、それは「自立への明るい兆し」であると割り切った方がいい（と思う）。
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260516145728/</link>
<pubDate>Sat, 16 May 2026 17:26:00 +0900</pubDate>
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<title>威圧する先生、逃げる生徒。</title>
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威圧する先生、逃げる生徒。
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260511070945/</link>
<pubDate>Mon, 11 May 2026 07:09:00 +0900</pubDate>
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<title>威圧する先生、逃げる生徒。</title>
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先生は威圧する。特段に叱ったり怒ったりしていなくても、一部の生徒にとっては、先生は自分たちを威圧していると感じるのだ。よくよく考えればわかる。先生には予め「権力」が備わっている。ベテランの先生にも新人の先生にもすべからく「権力」の行使が保証されている。クラスを取りまとめる…、授業を成立させる…、ルール違反を糾弾する…、そして子どもたちの安全を確保する…、そういった名目で先生は「権力」を振るうことを許される存在となる。逆に言えば、先生が正しく「権力」を行使しなければ、生徒集団の秩序は簡単に崩壊してしまう可能性が高い。だから先生は、権力を振るって威圧する。問題なのは、先生に与えられた「権力」…、それを必要以上に振るってしまう一部の先生が存在することだ。いや、今、一部の先生と言ったが、ホントは大半の先生が権力を無駄に行使している可能性が高い。というボクもかつて（若かりし頃）は、権力に酔いしれ、それを無駄に振るっていた時期があったからわかるんだ。先生にとって「権力」を行使するということは、実はとても気持ちの良いもの。だって、たとえ未熟な自身を自認していても、権力下にある生徒は、みな自分に従順になってくれるからだ。しかしその従順が、単に与えられた権力によってもたらされた結果であることすら、権力を振るう当の本人はすっかり忘れてしまう。つまり、権力の旨みを知った「鈍感な先生」ほど、さらなる権力を無駄に行使し続けた状態で、ドーパミンが出まくった自身に酔いしれるのである。そういった先生の実態を一部の生徒はよく見ている。「また怒ってる」「また怒鳴ってる」…。「なんか機嫌が悪そう」…、そう、この機嫌が悪い状態を生徒に見せて、生徒がら従順を引き出すことも、実は権力の行使なんだ。だからボクらは、権力の行使にはもっと慎重でなければならない。デリケートでなければならない。でなければ、生徒から「権力バカ」という称号を与えられてしまう。そのくらい「権力」っていうヤツは扱いが難しいのだ。ところで、予め先生に付与されているこの「権力」は、いったい誰（何）によって与えられているのであろうか。それを先生に与えているのは「権威」である。権威が先生の「権力」を正当化しているのだ。ならば「権威」とは何か？それは「学校」そのものであり、その学校の長である「校長」でもある。そしてその権威を最終的に担保することになる最上級の権威…、それが文科省、すなわち国家である。だから、このように重層的に保証された権威の下で、先生は昨日も、今日も、明日も「権力」を振るう。そしてそれが学校の「正義」となる。しかしその構造に「すっかり嫌気を感じている」子どもたちがいる。それが不登校児童・生徒である…、とボクは睨んでいる。彼ら不登校の子どもたちは、先生から発せられる恒常的な「威圧」を前にして、初めのうちは言葉では表すことができない息苦しさを感じている（きっと）。そしてその息苦しさが徐々にストレスへと変化し、彼らの学校に対する不信へとつながってくのだとボクは思っている。不登校の子どもたちは、不思議だけれども「敬語」を使わない。使えないのではなく、使いたがらないのだ。しかし、これを大人を相手としたコミュニケーション能力が不足しているからだ…、と断じるのは少し違う気がする。彼らはたとえ年上（大人）であっても、常にフラットな関係性でありたいと願っている節がある。だからボクなんかとも徹底的に「タメ語」で喋る。タメ語で話して、そして相手の反応を見ている。で、「この人なら大丈夫」と思った大人となら徹底的に付き合う。たぶん日常的に「安全な大人」を探し続けているんじゃないか…、そんなふうにボクは思っている。つまり、そんな心境にある彼ら（不登校児童・生徒）にとっては、学校も先生も、単に高圧的に自分に迫ってくる「敵」でしかないのであり、そんな「敵」からは一刻も早く逃げ出したいと思っているに違いない。それでも今日もまた先生は「威圧」する。「権力」をかざす。その威圧に嫌気がさして、またはその権力に怯えて学校生活を送っている子どもたちがいることなんか微塵も気づかないまま、先生は生徒を威圧する。そして社会でもまた、圧倒的多数の大人たちが、圧倒的少数の子どもたちを「威圧」し続けている。その結果、子どもたちは「逃げる」ことを選ぶ。学校から逃げる。社会から逃げる。こうして今日もまた、不登校児童・生徒が誕生するのである。
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260510112317/</link>
<pubDate>Sun, 10 May 2026 15:58:00 +0900</pubDate>
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<title>子どもは、基本…、放っておく。</title>
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子どもは、基本…、放っておく。
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260503082339/</link>
<pubDate>Sun, 03 May 2026 08:23:00 +0900</pubDate>
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<title>子どもは、基本…、放っておく。</title>
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不登校状態には2つのパターンがある。一つは「開かれた不登校」。もう一つが「閉じた不登校」である。開かれた不登校は「明るい不登校」とも呼ばれ（って勝手にボクがそう呼んでいる）、不登校状態にあっても周囲との関係性やコミュニケーションをちゃんと維持している…、そんな不登校である。で、明るい不登校には未来がある。未来を変えるエネルギーもある。だから問題ない。一方で、閉じた不登校とは、不登校状態に陥った初期に多いが、周囲との関係性を極端に狭めている状態にある不登校のことである。誰だって不登校に陥れば、周囲との関係性を疎ましく思うし、「一人になりたい」「放っておいてほしい」とする感情に支配されるものだ。だから、まず不登校の初期においては、できるだけ「一人にしてあげる」「放っておいてあげる」ことをボクは推奨している。もちろん個人差があるから、一概にこのやり方が正しいとは言えないかもしれない。けれども、子どもが不登校に陥ったほとんどの場面で、先生や保護者は、これとは逆の「圧力」を子どもにかけけ続けてしまう。「何があったの？」「どうしたいの？」「勉強は大丈夫？」…、こんな質問を子どもに投げかけずにはいられないのだ。考えてもみてほしい。不登校を堂々と宣言し、確信的不登校になった子どもならいざしらず、大抵の子どもの場合、不登校に陥った時、そのような状況になんで陥ったのかについて、きっと深く考えている。そして焦っている。つまり大いに混乱しているのである。そんな時に、周囲の大人たちは「良かれと思って」、あるいは「心配のあまりに」質問攻めにする。つまり不登校の原因を究明しようとする。原因が明らかにならないと自分（大人たち）が苦しいからだ。学校にいかないなんて俄には信じられない、ありえない現実から、少しでも自分（大人たち）が解放されたいからだ。だからこの段階（子どもが不登校に陥った段階）で、周囲の大人たちは、まずは一息つこう…。いったん休止符を打とう…。自分（大人たち）の何が悪かったのかなんてまったく考える必要はない。ただ冷静に、そして真っ直ぐに「子どもの不登校」を受け入れることだ。「一人になれた」「放っておいてもらえた」ところの子どもたちは、穴が空くほど自室の天井を見つめ悶々とする。そして、それでいいと思う。彼らは思春期の真っ只中にいるんだ。そのことを大人たちは忘れてはならない。学校生活のストレスとか、友人関係の複雑さとか、親子関係の難しさとか、勉強や将来に対する不安とか…、そんなこんなの「思い」を抱えたまま、いつでも心のバランスを保てる子どもなんて、ほんの少数派だ。ちょとした精神のほころびで、例えば学校に行けなくなる…。そんなことは十分にあり得るんだ。じゃぁ、なんで昔は不登校児童・生徒が今よりも圧倒的に少なかったのか？こんな疑問をもつ御仁もいるだろう。答えは明白だ。これを言ったら身も蓋もないが、「大人が子どもの思春期にいちいちカマッている暇がなかった」からだ。前述したように子どもたちは常に悶々としている。その悶々とした日々を大人たちは完全に放っておいた。無視をしていたのではない。確信をもって放っておいたのだ。すると子どもたちは、子どもたちなりに、そういった悶々とした状態からでも、ちゃんと呼吸をし続ける術を身につける。そう、それが自然治癒力ってヤツである。子どもを（良い意味で）放っておく…。少子化の今では、それができなくなった。マジョリティー化した大人が、子どもの周囲を取り巻いて、何でもかんでも世話をやく。マイノリティー化した子どもたちをカマいまくる。そうでもしなきゃ、子どもたちは健全に育たないと勝手に思っている。これ実は大人たちの「おためごかし」だ。子どもは子どもたちの世界で育つ。大人がかりで初めて機能する「エセ子どもの世界」なんてロクなもんじゃない。だから、よっぽどの緊急時でない限り「子どもは放っておく」に限る。ちなみに単なる不登校は、ここで言う「緊急時」には、もはや該当しない。
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260502125339/</link>
<pubDate>Sat, 02 May 2026 13:54:00 +0900</pubDate>
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<title>不登校にある子どもを腫れ物扱いすることの危険性</title>
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不登校の状態にある子どもたちは一様にセンシティブでもある。傷つきやすく、壊れやすく、何に対しても後ろ向きに考えたりする。で、親も先生も、そして行政も、そんな子らを腫れ物と認識し、デリケートな対応をする。そしてそれは間違っていない。うん、確かに彼らは「腫れ物」に違いない。ヘタにいじって腫れ物が悪化したら大変なことだ。「スリ傷」程度であっても、そんな彼らにさらなる「傷」を与えたら、それは与えた側の瑕疵となる。だから、周囲の大人たちは細心の注意をはらって彼らを遠くから見守る、または声がけをする。けれども、そのように扱われ続ける不登校の子どもたちの「出口」は、いったいどこに見えるのであろう。デリケートに扱われ続けた子どもたちに相応しいのは、きっとデリケートに覆われた社会でしかない。「めんどくさい…」と大人は思う。しかし、その「めんどくさい」デリケートな対応をを大人たちは淡々と実行する。意地悪な言い方をすれば、実行し続けることで「アリバイ」をつくる。「ちゃんと見ているよ、考えているからね」とする実績が大切なんだ。子どもは育つ。不登校状態であっても…、確実に育つ。成長する。だから大人の「アリバイづくり」も、子どもたちにはとっくにバレている。センシティブな状況にある不登校の子どもたちが、その程度の大人の事情に気づかぬはずがない。つまり、彼らは大人たちから「腫れ物」として扱われている自身をハッキリと認識し、さらに自分は弱者であると認識する。そういったことを「認識」し始めたら、そう、認識しだしたら…、ボクたちは彼らを「腫れ物」として扱うことをやめた方がいい。次に大人たちが実行しなければならないこと…、それは彼らを弱者の淵から救出することだ。多少の「スリ傷」を負っても、ちゃんと自分の傷口にツバを塗って回復させるほどの治癒力を与えなければならない。それを見極めるには、子どもたちの「心」が大人になりたがっている…、その瞬間を見失わないことだ。子どもは、いつまでも子どものままでいたいワケじゃない。弱い子どものままでいいワケがないと思っている。「何とかしなきゃ…」と、いつだって勇気を育てているんだ。その勇気が１㍉でも芽生えた時、その時が潮時かもしれない。その潮時に、大人は子どもを「船出」させる。そう、大人も勇気を振り絞って子どもを少しだけ遠ざける。ただ、その「船出」に失敗しても、戻ってくることができる「港」だけは用意しておく。それだけでいい。そういったことの繰り返し（トライ＆エラー）が、子どもを…、不登校の子どもを少しずつ「腫れ物」の呪縛から解放する。
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260426104659/</link>
<pubDate>Sun, 26 Apr 2026 11:37:00 +0900</pubDate>
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<title>先生…、そこ頑張らないと。</title>
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授業が「わからない」、授業が「つまらない」…、そういった生徒（特に中学生）が散見される。「わからない」なら「わかる」ように授業を改変すればいい。「つまらない」なら「おもしろい」授業を構築すればいい。だが先生の立場からすれば、これは一筋縄ではどうにもならない永遠の難問である。生徒が「わからない」と言うなら、放課後に残して「わかる」まで教えてあげればいいと思うだろう。しかし現行の制度上では、それはできない。先生は放課後にまで教科を指導することなんてできない話なのである。代わりに、「わからない」生徒に対して定年後の元先生たちが控えていて、放課後なんかにそういった子どもたちを集めて教え直していたりする。で、これはある種のブラックジョークでもあるのだが、とある生徒がこんなことを言っていた。「教えてもらうのはいいんだけど、ボクは去年、あの先生に教わってわからなくなったんです」と。これって、とても重要なポイントだ。かつて「わからない」授業を何年もやっていた先生が、定年後に、はたして「わかる」授業をすることができるのか…だ。先生の中には、生徒の「わからない」状態がどういった状態であるのかについて「わからない」まま授業を進めている人々がいる。「わからない」ことが「わからない」のである。そういった先生に限って、「こんなこともわからないなんて信じられない」と言う。そしてそれは、その先生にとっては、まったくの正直な感情なのである。ボクは時々思う。高校生であった一時期、ボクは勉強がら完全に遠ざかった生活をしていた。だから勉強がまったくできない…、授業がまったくわからい状態を経験している。つまり、ボクは勉強が「わからない」を知っている。それを知っているから「わからない」生徒の心理が手に取るようにわかる。そしてこれは決して自慢なんかではなく、ボクの隠しておきたい「負の遺産」であった。けれども、その時の「わからない」が、教師になった後のボクの仕事に対する方向性を変えた。人間は、「わからない」状態から「わかる」状態への飛躍を果たした時に、小さな、いや、ホントはとてつもなく大きな達成感を得る。その達成感（喜び）を知っていたから、ボクは目の前の生徒にも、その飛躍を果たしてもらいたいとする野心をもって授業を担当した。「わかる」生徒への授業なら、実は誰だってできる。知識の奥深さだけでも怠らなければ、決して彼らからの不興を買うことはないだろう。しかし「わからない」と焦っている、そして「つまらない」と感じている生徒への授業には、途方もない工夫と時間が必要だ。片手間ではそういった生徒の欲求を満足させることはできない。現実の先生には「そんな時間はない」という。「そんな余裕はない」という。だから「なんとなくわかっている」であろう生徒に照準を合わせた授業でお茶を濁すのだ。「わからない」…、だから「つまらない」生徒は、このようにして永遠に置き去りにされたまま、学年末に「評価」だけが下される。大抵の場合、そういった生徒の評価は「2」である。つまり「2」が大量に輩出されているということだ。けれどもそれではマズいことを先生も承知しているから、その「2」に該当する生徒の何割かを「3」にする。授業態度が良好で、提出物が完璧であれば、ホントは「2」なのに「3」がつく。結果、評価は「3」なのに本当は「授業がわからいままの状態」な生徒が多数誕生する。では、どうすればいいか。「わからない」生徒の発掘から正しく丁寧に行わなければならない。生徒に対するヒヤリングである。そしてそのヒヤリングの結果「わからない」が発覚した時、そのフォローをするのは、絶対に授業を担当していた先生に限る。「そんなことやってる暇がない」ってか？その他のすべての仕事を投げ打ってでも、例え管理職と喧嘩をしようとも、そこのところは絶対に怠ってはならない。現実では厳しいことは重々承知である。けれどもそれをやりきる覚悟が必要だ。でなければ、「わからない」だから「つまらない」状態にある子どもの大半が授業から逃げ出していくであろう。「授業からの（精神的な）逃走」である。そういった状況に置かれている子どもたちの中から「確信的不登校」が生まれる。これは間違いない。一刻を争う大問題…。それが「授業がわからない」「授業がつまらない」問題なんだ。
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<link>https://educational-pj.jp/blog/detail/20260422111630/</link>
<pubDate>Wed, 22 Apr 2026 12:17:00 +0900</pubDate>
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